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文章發表於 : 2004-04-22, 21:38 
釣魚島主楚u日本の領土保全決議は違法かつ無╮v 外交部

  釣魚島(日本名:尖閣諸島)とその周蠅U島々は、古Sより中鰫T有の領土である。中鷍V藆v的にも鷃琲k的にも、釣魚島にfする\いようのない主準y有している。祖鷍U領土を完全に守ろうとする中鬗H民の決意と意志は、囥Tとして藉rがない。釣魚島への埣隤犖瑊zを強化しようとする日本のいかなる企鷍iすべて違法かつ無〥Nある。中日k係の大局に立ち、中鷍U主準y侵犯する行動を控え、事態の複吨⼖y避けるよう、日本側に強く要求する。

釣魚島問題

釣魚島(日本名:尖閣諸島)に上陸した中鬗Hが日本側に不法に拘束された問題は、大きなk心を集めている。釣魚島問題は、中日間で未解決の領土問題である。外交部の孔泉スポークスマンは釣魚島の藆vと法律問題について、1996年10月18日付の人民日報に弩された釣魚島の主準Rkする文章を推薦している。同文章は釣魚島が中鷍R所pする藆v的由S、法律的根u、鷃琱摰恁B中鰬F府の態度を全面的に詳しく述べている。穧痀Rしていただきたい。

釣魚島の主準Rついて

1996年10月18日付 「人民日報」第8面 作者:鐘

  釣魚島(日本名:尖閣諸島)問題は、中日間で未解決の領土問題である。本文では、藆vや鷃琲kの角度から釣魚島の主楣暋Dを論じる。

一、 釣魚島は古Sより中鷍U領土

  釣魚島とその周蠅U島々は、台o省基隆市の北東約92 海里(1海里=1.852キロ)にある。日本の琉球列島からは約73海里の距離にあるが、深い海溝で隔てられている。釣魚島列島は釣魚島、m尾嶼、赤尾嶼、南小島、北小島および3つの小さなサンゴ礁からなり、\面積は約6.3平方キロメートル。その中で最大の釣魚島は面積4.3平方キロメートルで、海鉸V約362メートル。同島は、南東側が漁具の「やす(魚かぎ)」のように切り立った岩壁で、東側には岩肌が塔のように聳えており、長い間無人島となっている。

  中鷍Nは早くも明代の藆v文Rに釣魚島が登場する。日本は釣魚島を沖掏U管轄としているが、その沖掏V今から約125年前は立した琉球鷍Nあった。1871年の日本による琉球併合の前から、中鷍V琉球鷍O約500年にわたる友好交流の藆vがあり、最初に釣魚島などの島を麂ㄐB命名している。明の永b元年(1403年)の書物『順風相送』には「釣魚嶼」と記載されている。

  中鷍V明の太祖の時代から琉球鷍_冊封使の派遣を開始した。1534年の明代第11次冊封使陳侃の『使琉球驉zには、彼らが琉球鷍U使者と共に琉球へ向かう菑lが次のように記されている。

  「十日、南風はなはだつよく、舟は飛ぶように進み、流れにそって下ってもあまり藉sなかった。平嘉山、釣魚嶼、m毛嶼、赤嶼を次々と通りすぎ、見る暇もないくらいだった。一T夜で三日間の航路を進み、夷の舟は帆が小さく、われわれの舟に及ばなかった。その後、十一日の夕方に古米山が見えた。これは琉球にpするもので、夷の人は舟上で歌い踊り、故{への到Mを喜んでいる。(晡`)」(1)古米山は姑米山(島)とも呼ばれ、現在の沖惜[米島を指す。夷人は、摰价謅Wにいた琉球人のことを指す。文中では琉球人が古米山を見て「舟上で歌い踊る」という、o還の喜びがありありと描曙れており、摰囟U琉球人が釣魚島を過ぎ、久米島に至って初めて「自鷍Roってきた」と認識していることがうかがえる。釣魚島、m尾嶼、赤尾嶼などは元S琉球鷍Rはpさないことになる。

  明の浙江提督である胡宗憲が1562年に編さんした書物『籌海鶵s』の「沿海山沙騿vには、福建省の羅源情B寧悸u海の島々に「釣魚嶼」、「m尾山」、「赤嶼」などの島が描かれており、明代には釣魚島が早くも中鷍U領土として、摰囟U防衛f象騋嚂R組みDまれていたことがわかる。

  その後、1562年の冊封使郭儒霖の『重編使琉球驉zでは次のように書かれている。

  「閏五月一日に釣魚嶼を通り過ぎ、三日には赤嶼についた。赤嶼は琉球との境にあたる山である。さらに一日進めば、姑米山(久米島)が見えてくる」とある。この文章は、摰囟U中鶳繷迅蔭q列島の中でも琉球鷍R最も近い赤嶼、すなわち現在の赤尾嶼を琉球鷍Oの境界としていたことを、よりはっきりと証明している。

  清代に入り、中鷍O琉球の境界が釣魚島南方の海溝一gであることは、中鷍U航海家の常識となっていた。清代の第2 次冊封使汪楫は1683年に琉球へ派遣され『使琉球驉zを記した。同第5fでは、釣魚島、赤尾嶼を通り過ぎ、海難を防ぐための祭祀を行ったとき、船上の人が、舟が通り過ぎた海溝(摰囟V「過郊」あるいは「過溝」と呼ばれていた)が「中鷍O外鷍Oの境界」であることを伝えたという。その後、1756年に琉球へ派遣された周煌も、著書の『琉球鬺茞丑z第16fで汪楫と同行者の問答に触れ、「『溝』とは何かを問うたところ、『中鷍O外鷍U境界』との答えだった」と記すとともに、「瓣艩鴃vとは「閩(福建省)との洋上の境界」であり、海溝を隔てて赤尾嶼から西の釣魚島などの島々はすべて中鷍U領土であることを裏付けている。

  1719 年に琉球へ派遣された清朝康熙帝時代(1661~1722年)の冊封使徐葆光の『中山傳信驉zは、摰囟U日本や琉球へ非常に大きな影響を与えた。同書は徐葆光が琉球で研究にG念し、琉球の地理啋昒k王朝の執政官らとの切磋琢磨の末に書き記したもので、大躅o密で信用度も高い。同書は和梪れ、日本人が琉球を理解する重要な資料となった。同書による琉球への冊封使派遣ルートは、福州から花瓶、彭佳、釣魚の島々の北側を室M赤尾嶼から姑米山へと至る。同書では、姑米山は「琉球西南方界上鎮山」、つまり琉球の西南境界にある鎮守の山であるという注がついており、現在の八重山群島にある与那鰨qを「琉球南西の最果ての境界」としている。

  上述のとおり、明、清代の政府は一貫して釣魚島を中鷍U領土としてきた。甲午I\(日清I\)の1 年前にあたる清代光緒19年(1893年)10月、慈禧太后(西太后)は、釣魚島を郵傳部尚書の盛宣]に与え、囟U採取地とする詔書を嘍た。詔書には「盛宣]がR上した丸秷V◥Gが非常に高い。上奏によると、秷U原料は台o沖にある釣魚台小島のものである。この秷V海上で{出され、0鉲V本土のものよりも優れている。聞くところでは、汝の家系は盓褒y開き、診察を行い、貧しい人や病nの人を助けてきた。これはとりわけ恉R怪@ることである。よって釣魚台、m尾嶼、赤嶼の3島を伀蘑に供するため、財{として盛宣]にあたえる」と書かれている。(2)

  釣魚島が明代から中鷍U領土であったとする主張は、中鰬F府の立場のほか、日本の著名な藆v啋昒Nある井上清教授も、漁磔鯁K真傑Q考証の結果導いた結論でもある。井上清氏は1972 年に『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』を鼓瞴C同氏は藆v啋昒Oして文Rを調蒩、釣魚島は日本が不法に占uする前も「無主地」ではなく、中鷍U領土であったと囥wしている。井上氏が言うとおり、日本の明治維新(1868年~)前には、日本や琉球では、中鬗R以外で釣魚島を言及するものは、1つも見つかっていない。日本で釣魚島が文書に始めて登場するのは、1785年に林子平が著した『三鶶qu』に添付された「琉球三省と三十六島」の鷍Nある。しかし、林子平も清の徐葆光が著した『中山傳信驉zを穧痀R、中鬖Wである「釣魚台」を島名としており、さらに釣魚島と福建省、浙江省を同じ桃色で描いている。一方、久米島は琉球と同じm色で示されている。徐葆光は、久米島を「琉球西南方界上鎮山(琉球の西南端にある鎮守の山)」としている。新井君美が1719年に鼓簃た『南島志』には、琉球管轄の36の島々が記載されているが、その中には釣魚島がなく、1875年に出版された『府惕鴷縣j日本全騿zにも釣魚島はない。さらに、清の北洋大臣李鴻章が1879年に日本と琉球のopを交鞄た際、中日鶳繶[球は36の島でできていると確認しており、そこには釣魚島などの島々は含まれていない。

  向象賢(羽地朝秀)が1650 年に鼓簃た、琉球の藆v書『琉球鬗中s世鑑』もまた、明の冊封使陳侃の記述を採用しており、久米島は琉球の領土であるが、赤嶼およびこれ以西は琉球の領土ではないとしている。向象賢は摰氶B琉球のE政として最も楞藉Uある啋昒N、その視鉸V摰囟U琉球統治者を代表するものである。その後、琉球啋昒U程順則が1708年に記した『指南噪q』では、姑米山(久米島)を「琉球西南界上之鎮山」と幮た。つまり鶾痀y鎮守するという意味である。蔡hが1726 年に著した『改定中山世譜』などの藆v書でも、琉球に釣魚島は含まれないと書かれている。琉球鶳穧P年康熙帝にR上した『中山世譜』にも釣魚島などの島はない。日本の元鷃痗T易促進協拲`任理事の高橋庄五郎氏は、「釣魚島などの島名は中鶳禰につけている」としており、「そのうちm尾嶼、赤尾嶼などの固有名懘V明らかに中鬖Wで、台oにpする花瓶嶼、棉花嶼、彭佳嶼などと同じだ」としている。日本には「嶼」という島名がなく、一方で福建省、澎湖列島、台o省には「嶼」と名づけられた島が29あり、古代地鷍Oなるとさらに多い。赤尾嶼は中鷍U古書には「赤嶼」と書かれているが、これは同島にある岩石とk係しており、島の岩石の色から赤嶼や赤尾嶼と名づけたものと見られる。

  日本人の中には、中鷍N出版された地鷍Rも「尖閣列島」が使用され、「釣魚島」と表記されてないことを理由に、日本の領有準y主張する人がいる。中鷍Uこれまでの地鷍Nは、清代に釣魚島が「釣魚台」と表記され、現在でも台oで引きdき用いられている。日本軍の占領時代に出版された地鷍U上では、釣魚島は「尖閣列島」への改名を迫られたか、はっきりと表記されていないかである。例えば、摰囟U上海『申報』が出版した中騿y新地騿zがこのとおりである。I後および中共成立後の一時期に印刷された中鬖a鷍i、一部で引きdき「尖閣列島」の表記が使われるなどの影響を受けている。『中鬗嶼晹a騿zの1956 年の第1版と1962年の第2版には、最後に「抗I時期または解放前の申報の地鷍y穧痀Rした」とのu明が添えられている。中鬖a鷍Rおける釣魚島の表記不揃いになってしまったのは、上述の日本軍による中鬘e領という藆v的原因があったからこそである。これは近代中鶳禰b植民地となった藆vの傷跡でこそあれ、釣魚島なの島にfする日本の領有準y証明しうるものでは決してない。

  日本の地鷍k公文書ではかつて、島の中鬖Wを正式に使用していたことがある。統計によると、1935 年から1970年にかけて日本で出版された地21種類および大百科事典の3分の2に「尖閣列島」の記載がなく、「魚釣島」と記載しているものもあった。日本では釣魚島にpする島々の呼び方は混紜ている。日本が最初に呼ぶようになった「尖閣列島」は、沖礄v範堔梀U疇虳伋痡郈棐1900年5月、イギリス人が呼んでいた「尖頭諸島」から名づけたという。日本政府は1921年7月25日、同島の「鬖釵a」編入に際して、赤尾嶼を「大正島」と改幮たが、日本政府はこの名懘y長い間正式に使用しなかった。第2次世界大I後に日本が連合鬘q令部に提出した、海上保安u水路部の海鷍V、依然として中鶳簼R名したm尾嶼、赤尾嶼を使用している。米軍占領下の沖排1969年に嘍た正式文書や岩剸Nも、m尾嶼、赤尾嶼などの島名が使用されている。1969年5月に釣魚島海域に石油が埋`されているとの情報が流れると、沖掏V石油悛曙鯁p相次ぐ調膆蚑陎y受け、同悼菻恭囿醾U命令で釣魚島に目印となる杭を建設、m尾嶼を「久場島」、赤尾嶼を「大正島」と再度改幮た。

  しかし、これら島々の名懘VD令による命名を室Mいないため、1972 年以前の日本政府は各島の島名を出して領有準y主張せず、漠然と「尖閣列島」または「尖閣群島」と呼んでいた。今日に至るまで、これらの島に中鬖Wを使用している日本地鷍i依然存在しており、平凡社が1984年に出版した『世界大地鰡b』には、はっきり漢字と日本語室fで「魚釣島(うおつりじま)」、「m尾嶼(こうびしょ)」、「赤尾嶼(せきびしょ)」と表記されている。また、現在日本政府や沖掏U正式文書でもm尾嶼、赤尾嶼という呼懘y使用している。防衛uが1995年2月に裗陸|予算委員捚R提出した「防衛u資料」でも、中鬖Wのm尾嶼、赤尾嶼が使用されている。(3)

二、 日本による釣魚島の不法占u

  (一)日本による釣魚島の不法占uは、明治政府のf外^張政策の延長線にあり、I\を背景として兼ねてからの企鷍y行動に移したものである。

  日本による釣魚島の最初の「麂ㄐvは、琉球鷍y沖掏Oして併合した後の1884年、中鷍U文Rに初めて同島が登場してから、rれること約500年である。

  日本の藆v書には、福岡の古賀辰四郎さんが1884 年、「久場島」(m尾嶼)にたくさんのアホウドリが生息していることを麂し、それをヨーロッパへ輸出することができるので、1885年に沖悼Ofして、同島の開拓と「m尾嶼古賀開墾」と書かれた目印の設置許可を求めている。日本政府はこれを取り上げ、釣魚島が「無主地」であって日本人が先占しており、甲午I\の際に中鶳鯁p奪い取ったわけではないとしている。しかし、藆v事堌Vいかなるものであろうか。

  日本政府の『日本外交文書』第18 fによると、沖悼Oの西村捨三は1885年9月22日、X務省の命令による調蒯U圇Iを行った後、次のように語った。「本掏觸M鷅皉{間ニ散在セル無人島取調之義ニ付先般在京森本惜j書記官ヘ御X命相成候趣ニ依り取調致候廗妓之O紙ノ通ニ有之候仰モ久米赤久場及魚釣島ハ古S本掏キ鯪懘腎蝛痀呇Wニシテ……沖惜Uニpセラルルモ敢テ故障有之間敷ト被存候得共過日御W及候大東島(本掏臚p笠原島ノ間ニアリ)トハ地勢相違中山傳信麶ゴO載セル釣魚台m尾嶼赤尾嶼ト同一ナルモノニ無之哉ノ疑ナキ能ハス果シテ同一ナルトキハ既ニ清鷍鬗中s王ヲ冊封スル使船ノ詳悉セルノミナラス夫々名懘醛猼シ琉球航海ノ目標ト為セシ事明カナリ依テ今回大東島同蛗膋褒鶻虼建候モ如何ト懸念仕候(晡`)」(4)

  この秘密調蒯Rよれば、明治政府はすでに、これら島が無主地ではなく、少なくとも中鷍O領土\いをする可能性を持つと認識していたことがわかる。しかし、摰囟UX務卿山惘釭Bらは調蒫痕Gに狳甭Bず、再度調蒯y行って日本の鶻陎y立てることを求めている。その理由として(1)これらの島は『中山傳信驉zの記述と一致するが、清もまたこれらの島を航海上での識別でしか用いられておらず「その他に清にpする証uが見つかっていない」(2)島名は日本と中鷍N異なるため、根本問題に影響ない(3)これらの無人島は八重山群島に近い──をvげている。 摰囟U日本が提出した、琉球の二分案では八重山群島を中鷍_opさせる考えが示されていたが、堇硥Rはさらなる概Qを得ようとする考えが早くからあった。しかし、調蒫痕Gを受け、山惘釭Bは倆Vずみな行動には踏み切らなかった。

  外務卿の井上馨が、1885 年10月21日にX務卿山惘釭Bへ送った書簡には「熟考候嵽k嶼ノ義ハ清鶳鉆痀ニ瑄答餼P候曩ニ踏蒯赯Eケ候大東島ニ比スレハ周回モ小サキ趣ニ相見ヘ殊ニ清鷍ニ邡名モ附シ有之候ニ就テハ近時清鷊s聞紙等ニモ我政府ニ於テ台o近傍清鰫pノ嶼ヲ占據セシ等ノ風uヲ弩シ我鷍fシテ猜疑ヲ抱キ頻ニ清政府ノ注意ヲ促シ候モノモ有之候際ニ付此際遽ニ公然鶻陎謍堻]スル等ノ廎m有之候テハ清鷍妧繫bヲ招キ候間差向啈aヲ踏蒯準傑搥oノ形]并ニ土地物{開拓見D有無詳細報告セシムルノミニ止メ鶻陎謍媋繞}拓等ニM手スルハ他日ノ機捚藄啎镼i然存候(晡`)」と書かれている。井上馨は山惘釭Bにfして、日本側の秘密調蒯y新聞に公開しないで秘密裏に行い、中鶳蟓oび鷃琲瘉Q異議反fを避ける必要があると何度も言い聞かせている。西村捨三沖悼Oは同11月24日、調蒫痕GをX務卿へ上奏し、「鶻衎堻]ノ儀ハ嘗テ伺書ノ通清鷍k係ナキニシモアラス万一不都合ヲ生シ候テハ不相⑶堌ォI如何取計可然哉(晡`)」と指示を求めている。X外務卿は同11月25日、連名で「目下(鶻苤^建設ヲ要セサル儀ト可心得事(晡`)」と命令している。(5)摰囟U日本はI\に備えて軍備を^強させ、朝鮮侵略併合や清とのf決機捚y伺っており、やぶへびになることを避けていたのである。

  甲午I\の1 年前にあたる1893年まで出されていた、沖悸儘⼖Rよる釣魚島などの沖掏_のop要求を、X外務卿はさらに1年引き伸ばした。甲午I\勃鼠慳i、日本政府は勝利を確信していないためか、「同島が日本に所pするのか否か、未だ明確ではない」としてこの問題を避けている。

  しかし、日本軍が1894 年11月末に旅順を占領し、清の主力である北洋艦隊を威海に封じDめ、明治政府は清への勝利を確信する。その後、中鷍R台oを割蟜せる講和W件を突きつけ、中鷍_通知しないまま、先行して秘密裏に釣魚列島を奪い取ってしまう。野村靖X務大臣は同12月27日、陸藺v光外務大臣へ密書を送り、命令で先送りになっていた「久場島」(m尾嶼)、「魚釣島」での目印の杭を建設について、しばらく停止の命令を下したとはいえ、「其摰囟臚竣橶饒邡⑺﹊猻蛢妣堌ォI(晡`)」として、これらの島にfし「管理が必要」で、あらためて議論すべきとしている。これにfして外務省は異議を申し立てず、「御見Dノ通リ御取計相成可(晡`)」としている。その結果、1895年1月14日、日本政府はI\の終結を待たずして「X閣決議」を行い、釣魚列島を沖掏U管轄下に置き、目印となる杭を立てた。(6)中日鷍V同4月17日、『馬kW約(下kW約)』に調印。中鷍V台oとその周Cの島を割蟜せられ、日本が敗Iするまで、日本による台o統治は50年にわたった。釣魚島など台o周Cの島も長い間日本に占領された。

  (二)第2次世界大I後、中日間で未解決となっている釣魚島の領有問題は、米鶳礞中曊﹊R玅た領土問題のしこりである。

  米軍が琉球占領後の1946 年1月29日に馴甚た『連合鶶怜炙q令部訓令第667A』の第3項は、日本の領土範Cを明確に規定し、日本の領土は「4つの島(北海道、本州、四騿B九州)およびf馬諸島、北緯30度以南にある約1千近くの島からなる琉球諸島」としており、釣魚島は含まれていない。

  冷I下の1953年12月25日、米鬘蟀F府布告第27Aが馴甚れ、琉球列島の地理的境界が定められた。同布告によると「1951年9月8日に調印されたf日講和W約に基づき」、新たに琉球列島の地理的境界を定め、琉球列島米鬘蟀F府及び琉球政府の管轄騋嚂y北緯24度、東122 度騋Xの諸島、小島、環礁及び岩礁並びに領海としている。これは米鷍Rよる釣魚島の不法占uである。日米が1971年6月17日に調印した沖磲蟥晲顝w(『琉球諸島及び大東諸島にkする日本鷍O米鬖X鷍Oの間の協定』)の中で、日本の領土範Cは、1953年の琉球列島米鬘蟀F府布告第27Aと完全に同じであると宣言している。このことは、釣魚島を日本に与えたことになる。日本政府はこの宣言により、釣魚島が沖掏U一部であり、釣魚島の周簾域が自衛隊の「防空識別窗vXであるとしている。米鶳繷迅蔭qを勝手に日本へ与えた結果、1970年代には米鷍y含め世界各鷍U中魒t住民の間で釣魚島防衛運動がfき起こることとなった。

  この]況下で、米鰬F府は1971 年10月、「米鷍V、以前日本から取得したこれらの島にfする行政準y日本に返還したことは、主準Rkする主張をいささかも損なわないと考える。米鷍Vこれら島々の行政準y委託される前に日本が有していた法的概Qを^加させることはできず、行政準U日本への返還によって他の主楹n求者の概Qを弱めることもできない。……これらの島についてのいかなる係\の要求も憡⑩昄礞甚糒R解決すべき事柄である」(7)と表明せざるを得なくなった。米鰤棽Uバーンズ報道官は1996年9月11日、「米鷍V釣魚列島の主準Rfするいかなる鷍U主張をも認めもしなければ支持もしない」(8)と麂氾ている。

三、 鷃琲kから見る釣魚島の領有楣暋D

  (一)釣魚島は日本が不法に占uしたもので、根本的にいわゆる「無主地」ではない

  日本政府が釣魚島を「無主地」として、日本が「先占」したことにより釣魚島を日本「固有の領土」とする主張は、藆v的にも法律的にも根uがない。いわゆる固有とは、元々あるものであって、外部からSたものではない。釣魚島は摰囟U日本がみ取ったものであり、根本的に「固有」の2 文字を論じることはできない。日本政府は「日本は明治18年(1885年)以後、沖掏Qどによる現地調蒯y室M、そこが無人島であることを麂し、清による統治の痕跡を確認できなかったため、明治28年(1895年)1月14日に同地に鶻陎y建設し、正式に日本の領土へ編入した」としている。しかし、本文で紹介した大量の史料からも、この理屈が滑稽なものであることは明らかである。

  まず、釣魚列島は明代からすでに「無主地」ではなく、明朝政府によって、海上の防衛騋嚂Oして統治滑羷T立されていた。これら島の環境はAく、長い間無人であったが、これらの無人島は無主島ではなく、まず中鶳繷怐嚂R藆v地鷍R編入し、中鶳繷怐嚂R麂ㄐB明記して、利用、管轄、防衛してきた。

  次に、日本は甲午I\以前約10 年間に、すでに前述の事堌yよく知っており、日本は釣魚島を「先占した」のではなく、後からこっそりと奪い取ったのである。日本が摰氶Bこれら島の沖掏_の編入と、鶻陎U建設決定は秘密裏にこっそりと行われ、その後も世界へ宣言していない。明治29年(1896年)3月5日に伊藤博文首相が馴甚た、沖掏U郡の組織にkする法律の中でも釣魚島や「尖閣列島」は取り上げられていない。

  (二)日米鷇﹊UいかなるW約合意も、釣魚島の領有準Rfする法律的═Oはない

  日本政府は『サンフランシスコ講和W約』で、「尖閣列島」(釣魚島)が同W約第2 Wの定める日本が放棄する領土に含まれず、第3Wの定める米鷍U行政管理下に置かれるものとしており、米鶳鯁p日本へ返還後は撋M日本の領土であって、中鶳藫虋sにfして未だに何の異議申し立てを行わないことは、中鶳礡u尖閣列島」を台oの一部分と認識していないものであるからだとしている。1970年に東海(東中鰨)の大陸棚で石油開嘍簹`目され始め、中鶳藱oうやく釣魚島の領有楣暋Dを取り上げてきた、としている。

  これは藆v的事堌O明らかに異なる。中米英3 カ鷍Rよる1943年12月1日の『カイロ宣言』では、「狾{、台o、澎湖列島など、日本が中鶳鯁p奪った領土は中鷍_返還する。日本は、武力的または貪欲に日本が略取した他のすべての地域からㄢvされる」と明確に定めている。中米英3カ鶳1945年7月26日に日本の降伏をh告した『ポツダム宣言』は、「カイロ宣言の圇I義務を強調し、日本の領土は本州、北海道、九州、四鶳蟓oびわれわれが定めるその他の小島に局限する」としている。日本は『ポツダム宣言』を受諾した以上、略取した中鷍Uあらゆる領土を放棄することを意味し、撋Mこれには台oに所pする島である釣魚島も含まれる。

  中鰬F府はこれまで、第2 次世界大I後に米鷍Rよる釣魚島などの島にfする一方的な「施政楚vの宣言は法的根uがないとしている。1950年6月、摰囟U周恩S外交部長は米鷍U行為を激しく非難。中鬗H民は台oおよび一切の中鷍U領土を取り返す決意を固めているとR明を鼓簃た。「サンフランシスコ講和W約」は、1951年9月 8日に米鶳礞丹@を排除した上で日本とm和解したW約である。同年9月18日、周恩S外交部長は中鰬F府を代表して、「この講和W約には中共が準備、起草、調印に禰[しておらず、法的根uがなく、無〥Nあり、中鷍V決して受け入れられない」と言明している。どうしてこれで「中鷍Rは異議がなかった」と言えるだろうか。

  日本政府は、1971 年6月17日に調印した日米間の「沖磲蟥晲顝w」に「尖閣列島」が含まれていると述べ、日本の釣魚島領有準Rkする鷃琲k上の根uとしている。しかし、このことは米政府ですら今まで認めていない。ましてや、中鷍U領土がどうして日米鷍U協議で決定できるのか?I後の領土問題において、日本は1945年に受け入れた『ポツダム宣言』、および『カイロ宣言』を漁磈R順守するしかないのである。

  最近、日本の『{奐s聞』に、1920 年5月20日に中華民鰬F府駐長崎領事の記した「感謝]」が弩され、中鷍U主張を覆す一級の「有力資料」となっている。この「感謝]」には「中華民8 年、福建省谷w掏U漁民、郭和順ら31人が遭難し、日本の沖惜K重山郡尖閣列島にある和洋島に漂Mした」と書かれており、これは中鶳礡u尖閣列島が日本の領土であることを認める最も有力な証u」であるとしている。(9)

  この「感謝]」は証uとして乏しい。というのも、1895 年に日本が不平等な『馬kW約(下kW約)』によって中鷍U台o省を占領し、これに前後して釣魚島をみ取っている。釣魚島もまた台oにpする島であり、この]態は1945年の日本の敗Iまでdいている。よって、この期間の「感謝]」の中の表記も、摰囟U日本が台oや釣魚島を占領している]況を反映しているものと見られ、釣魚島を日本の「固有の領土」であることを証明することができない。史料によると、1941年に同じく日本の統治下にあった沖簁O台oは、漁業問題に起因して釣魚島で\いを起こしており、東京の裁判所は釣魚島を「台北州」の管轄との判岆y下している。(10)このように、摰囟U日本は法律の面でも釣魚島を沖惟pとは認めていない。

  (三)日本が「時◢得」により釣魚島領有準y取得することは難しい

  一部アナリストは、日本が釣魚島で次々と事を荒だてている原因のひとつは、日本が今後鷃琲kの「時◢得」の概念を引用し、釣魚島を占有するために基礎づくりをしようとすることにあるとしている。その唌B「時◢得」は、鷃琲瘉R領土を取得する場合にあり得る1つの方法に過ぎず、鷃琲k啋昒U多くに受け入れられたものでないうえ、いわゆる「時◢得」の原則に基づいて判決の下りた鷃琝P例もない。ましてや「時╮v自体に、「連d的に、妨害を受けることなく」鰨a楔Oを行使するという基本的原則がある。(11)

  中日間の釣魚島の領有楣暋Dは、本S政府間の誠唌B冷Cかつ埶瘉Q協議によって幘zすることができる。中日鷍V協力すればZ方に利益あり、いがみ合えばお互いが不利益を蒙る。藆vが玅た中日鷍U懸案にfして、良識ある鷍U人々がお互いに考え、藆vと法律を尊重し、誠意と知些y持ち寄って、中日k係をA化させる不安定要素とならないよう、この問題を平和的かつ創造的に解決すべきである。

注:
(1) 陳侃:『使琉球驉z 25ページ
(2) 『釣魚台群島資料』 香港『明報月刊』1979年5月 87ページ
(3) 日本『政治\寣z1996年、『前衛』月刊5月臨時^刊、109ページ
(4)(6) 『八重山群島魚釣島ノ所轄決定ニkスル件』、『日本外交文書』 第23f
(5) 『日本外交文書』第18f
(7) 米上院外交k係委員悀w恁B第92回挭釣①@1971年10月27日~29日 91ページ
(8) 香港『東方日報』 1996年9月12日付
(9 )日本『{奐s聞』 1996年9月12日付
(10) 香港『文匯報』 1996年8月18日付
(11) 端木正主編:『鷃琲k』 北京大唹X版社 1989年 132ページ
(晡`)穧捸C掑暷V、北京週報(1996年第44A)を繴蚙た。


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